ねらい

「私たちは何を目指すか」1

「現代インド地域研究」総括責任者 田辺明生

  1. はじめに 
      現代インドは、大きな変容を遂げています。インドは、1980年代の過渡期を経て、1990年代を境とし、ポスト植民地期から次なるグローバル・インドの時代にはいったということができるのではないでしょうか。
      私たちがなすべきことは、こうした現代インドの動態を、「政治経済」・「社会文化」・「生態環境」の<総合>的な視点から、歴史的な<長期>変動と空間的な<比較と連鎖>のなかに位置付けて理解することでしょう。

    1)総合:政治経済、社会文化、生態環境を総合した学際的理解。
    2)長期変動:複数の時間スパンから見た現在動態の歴史的理解。
    3)比較と連鎖:多元的・重層的な空間構成(構造とネットワーク)のグローカルな理解。
     

  2. 特定領域研究「南アジア世界の構造変動とネットワーク」(1998~2000年度)の総括
      特定領域研究では、1980年代以前のインド研究の枠組を相対化することに重点がありました。具体的には「計画か市場か」、「政治と経済を統合的にとらえる必要」といった問題意識が中心であり、1991年の経済改革による変化の深度を測ることがその底流にありました。比較的早い時期に1991年改革の歴史的意義を問題にし、その後の議論の基盤をつくったことになります。
      また、環境やジェンダーの問題、そして世界システム論的な視点が新たに可視化された点にも大きな意義がありました。叢書『現代南アジア』において、これらの課題の重要性がはっきりと示され、その研究課題としての認知は大きく進展しました。
      特定領域研究は、南アジア学会発足(1988年)後10年を経て初めての南アジア研究の大型プロジェクトであり、南アジア研究者の学際的な対話と南アジア地域の総合的な理解に大きく貢献した画期的な事業であったと評価できるでしょう。
      これらの成果を本プロジェクトにつなげていく必要があります。
     
  3. 現実と研究関心の変化
      インドをめぐる状況はその後どのように変わってきたでしょうか。もっとも大きいのは、2010年現在において、インドが、格差拡大や環境汚染などのさまざまな問題を抱えながら、世界経済との緊密な統合のもとに経済成長の軌道に乗ったことでしょう。そのなかで、世界政治でのインドの存在感もより大きく高まっています。こうした状況のもと、インド研究の関心の焦点は、停滞がもたらす貧困や限られたパイの取り合いからなる紛争から、経済成長にともなう社会変動や民主化そしてグローバルな構造変化などの新しいダイナミズムに移りました。そしてそうした新たな文脈のなかでの格差拡大や取り残された貧困、また社会的・政治的な周縁化や生存基盤の確保といった問題が改めて注目されています。
      現在私たちに求められているのは、インドの成長を支えるメカニズム―その構造と歴史―と、成長にともなう全体的な構造変動のありかたを、環境・エネルギー問題や格差拡大という新しい問題を含めて理解するための枠組でしょう。
     
  4. 問題領域の変化
      それを考えるうえで参考になるのは問題領域の変化です。第一に、環境問題が、インド内外で大きなイッシューとして登場しました。地球温暖化やエネルギー問題を背景として、国際関係のなかでも重要課題のひとつとなっていますが、インドの政治経済や社会運動を論じる場合にも、環境や生存基盤に関わる話題が重要性を帯びるようになっています。現在、いかに経済成長を続けながら同時に生きる環境を保全し、住み場・森・水・農地・職・教育・医療という生存基盤を持続的に確保できるのかという新たな課題が、最重要の問題のひとつとして浮上しつつあります。これに対応して、生態や環境に関わる学術研究も盛んになり、見るべき業績があがるようになりました。
      第二に、特定領域研究の時と比べると、政治と経済を核としたナラティヴに加えて、文化価値や社会関係、そして宗教・思想の問題が現代的ダイナミズムの重要な構成要素として大きく取り上げられるようになりました。政治は資源配分の決定過程をその本質としており、何が資源であるのか、誰が受け取るべきなのか、という価値や社会関係の問題と切り離すことはできません。また経済活動を理解するにおいて、需要のありかたを規定する消費文化の構造と変容や、生産における産業構造の展開、そしてそれにともなう都市・農村関係の変容、教育や就業にともなう社会的モビリティ、地域ごとの特色ある発展などを見逃すことはできません。インドにおける政治経済の構造とダイナミズムを解明するに当たっては、文化価値や社会関係の理解が必要であることが認識されるようになり、そこから政治経済と社会文化の相互作用において、インド世界の固有性と世界とのつながりをより総合的にまた比較的な視点から論じる方向に変化しつつあります。
      私たちは、これらの二つの動向を積極的に受け止め、特定領域研究の時の枠組をより豊かにしていくべきだと考えます。つまり私たちは、「政治と経済の統合」からさらに、「政治経済・社会文化・生態環境の統合」へと進んでいく必要があります。
     
  5. 求められる視座
      こうした現実、研究関心、問題領域の変化を前にして、現在私たちは、1990年代以降の変化をより長期的・総合的な視座から見直す必要を感じています。1990年代以降の変化は、「計画から市場へ」という国家体制の問題としてのみ理解できるものではなく、変化する制度のなかでインド社会が主体的にそれに対応してきた過程でもあります。とすれば、グローバルな文脈と国家制度の変容をおさえながら、時代ごとのインド社会における人々の行為主体性はいかに展開してきたのか、またそうした行為主体性を支える文化・歴史的な基盤はいかなるものであるのかを解明していく必要があるでしょう。
      つまり、現在のインドの成長を支えるメカニズムと成長にともなう全体的な構造変動のありかたを理解するにあたっては、人々の行為主体性を焦点のひとつにおきながら、地域固有の生態環境のなかで発展してきた政治経済・社会文化の構造と歴史的変化を長期的な視野において解明する必要があります。それはいわば、インド型(南アジア型)発展径路2とその現在的展開を総合的・学際的な視点から明らかにし、それが現在のインドにおける経済社会の活況といかに結びついているかを把握することです。南アジアの生態環境条件と社会経済構造の特質、近世インドのダイナミズム、植民地期インドの両義的な状況と人々の創意工夫をともなう主体的営為、独立インドのスワデーシー工業化と緑の革命のインパクトなどが、現在のグローバル・インドの活況とどのようにつながっているのかを解明することによって初めて、私たちは、現代インドのダイナミズムおよび新たに生まれつつある問題を十全に理解することができるでしょう。
      そして、こうした総合的・長期的なインド理解のうえにたって、インド世界をグローバルな比較と連鎖のなかに位置付けることによって、現在のグローバル・インドを全体として理解することができるはずです。 3つまり私たちは、「計画から市場へ」という視点からさらに「グローバル・インドの発展径路」の全体的な解明へと視座を進める必要があります。
     
  6. 現代インド理解のためのたたき台
      こうしたパースペクティブのもと、現代インドをどのようにとらえたらよいのか、1年間の準備期間を経た現代インド地域研究事業の本格的な発足にあたって、ここに私たち総括班のひとつの見通しを、キーワードを中心に簡単に記しておきたいと思います。これはあくまで、これからの事業活動を展開するにあたってのたたき台となるもので、建設的な議論と対話を通じて、その内容を修正・精緻化しながら発展させるための出発点にすぎません。そのため、あえて議論を提起するかたちで示しています。

    • 全体的変動:「ポストコロニアル・インドからグローバル・インドへ」。植民地期の遺産としての連続的な統治機構(官僚制、軍隊、警察、司法)、階層的な社会構造(カーストヒエラルヒーと資本・土地所有にもとづく支配構造の大まかな一致)、植民地的な認識枠組(「近代と伝統」「西洋とインド」「市場と共同体」「都市と村落」「物質と精神」「男性と女性」などを相互に重なり合った二項対立としてとらえる)によって特徴づけられるポストコロニアルから、「支配のガバナンス4化」、「多元的社会集団の主体化」「対立をこえた新たなつながりの可能性」のなかでグローバルに展開するインドへ。グローバル対ナショナルという民族主義的な対立図式から、グローバル、リージョナル(「東・南アジア」)、ナショナル、サブナショナル(州)、ローカル(県、地域社会)の緊密なつながりへ。5デモクラシーと市場経済の末端にまでいたる浸透。しかしそれは普遍的システムによる一元化を意味しない。インド社会の民主化と市場化とともに、デモクラシーと市場経済の実際の動きが現地化(ヴァナキュラー化)している。そのなかで多元的な社会集団が政治経済的に主体化。多元的な文化や社会集団(世界とインド、市場と共同体、都市と農村など)の新たなつながりのなかで、諸問題を抱えながらも、新たな価値(文化、商品、政治ビジョンなど)を創造していくインドの存在感の高まり。グローカル・ネットワークのなかで独自のプレゼンスをもつインド。
       
    • 政治:「ポストコロニアル・デモクラシーから包括的成長のためのガバナンスへ」。ポストコロニアル期には、植民地遺構(統治機構+階層的な支配構造)の清算と残置。デモクラシーの定着化。過渡期の1980年代には、諸社会集団の政治的な主体化→アイデンティティ・ポリティクスへ。1990年代からの民主化とガバナンス化の進展。80年代から90年代以降は、諸社会集団による「とりあいの政治」6 から多元性を包摂する「成長の政治」7 へ。別言すれば「アイデンティティ・ポリティクスからガバナンス」へ(宗教・カーストをこえたガバナンス重視への転換指向)。
       
    • 経済:「スワデーシーからグローカル経済へ」。社会主義型の国家統制でも、グローバル資本主義(ネオリベラリズム)による一方向的な包摂でもなく、諸政府のガバナンスとグローカル市場経済の進展のもとで、人々の独自の「需要」(都市と農村をつなぐ新たな消費文化の発展)と「生産力」(経済的なソフトパワー)にもとづく経済社会の活況へ。「市場か共同体か」から「市場と共同体のつながり」へ。農村・都市・海外の緊密なつながりのなかの人・モノ・カネ・情報の移動を通じた世界経済との統合。地域間・階層間の格差拡大。階層構造の継続のダイナミクスと階層間移動のダイナミズム。
       
    • 社会・文化:「エリートとサバルタンそして都市と農村の分断から、つながりと相互作用のなかの多元的な公共圏・公共文化の成立へ」。インドにおける公共圏・公共文化の歴史的変容を、市民社会論やサバルタン論の諸理論を射程に入れつつ、市民概念の目的論的前提やサバルタン概念の実体性・固定性をこえて把握する必要。
       
    • 思想・文学:「近代と伝統あるいは西洋と東洋の対立から、固有でありながらグローバルな普遍性のある価値の創造へ」。
       
    • 環境:「環境と開発の矛盾から、環境を生かした生存基盤持続型発展へ」。環境問題は、政治(内政・外交)や社会運動の中心的イッシューのひとつとなっている。以前の環境運動は反開発であったが、現在ではアプリオリに反開発というわけではなく、環境持続性と社会的公平性を保障するようなよりよい発展を目指す動きへ。インドにおける生態環境を自然科学的な視点からも把握し、環境と人間の関係性がいかに歴史的に発展し現代の動態にいたっているかを解明する必要。また環境問題についてのグローバルな視点からの把握が必要。「ネーションの“環境と開発”からグローバルな環境地政学へ」。地球環境問題(温暖化)と資源・エネルギー問題は、ヒマラヤの水資源の問題などを通じて、国際関係でも中心的なイッシューのひとつになっている。インドは変動する環境地政学(environmental geopolitics)のなかでどのような位置を占めていくのか。
       
    • ジェンダー:「ジェンダー構造と女性『問題』から社会的ダイナミズムへ」。インド文化に埋め込まれたジェンダー構造の分析や、サティーやシャー・バーノ事件などの個別イッシューにおける女性「問題」への関心、そしてそうした視座の問題点の指摘から、歴史的に変容し現在さらに大きく変わりつつあるジェンダーの関係・価値のダイナミズムに研究の焦点は移る。一般女性の公共圏への進出(政治参加、教育・就業、自助グループなど)による公共圏と親密圏(家族・親族)のつながりの新たな組み直しへ。
       
    • 外交:「非同盟から多極化のなかの連携へ、そして将来的な世界地殻変動におけるメージャープレーヤーへ」。冷戦構造下の非同盟(権力的秩序[status quo]への異議申し立て、例:NPT体制への反対)から、核武装による大国化へ。しかし国際政治のグローバル・ガバナンス化の進展のなかで、先ずは多極的国際秩序形成を目指し、国際融和のなかで国力と発言力をつけるための多国間との協力関係づくり(例:核協力協定)。将来的にはインド洋・アジア、次いで世界のメージャー・パワーへの志向。南アジアは新グローバル秩序の理念形成においてこれまでも影響力を発揮(「人間開発」「人間の安全保障」「グラミンバンク」など)してきたが、将来的には、軍事的および非伝統的な安全保障における世界秩序形成のキープレーヤーのひとつへ。
       
    • グローバル化とインド:「他者としてのインドから、環流するインドへ」:オリエンタルな他者として客体化・本質化されるインドから、グローバルな文化発信主体としてのインドへ。インド発の人、モノ、情報、価値がグローバルに流通し、さらにそれが発信地に回帰して再帰的に影響を与え、インド世界そのものがグローバルな環流のなかで変容・展開していくプロセス。 多極的グローバル化のなかでのプレゼンス。
       
    • 世界の地殻変動とインド:「大西洋からユーラシアとインド洋・太平洋へ」。2020年、2050年の世界秩序形成におけるグローバル・インドの役割と位置付けの問題。世界政治経済のアジェンダの変化(環境・資源や人間の安全保障の重要性の増大)と世界構造変容(BRICsに代表される新興国の台頭)のもとでの新たな地政学のなかで、インドはどのような位置付けにたつのか。
       
  7. おわりに
      現代インド・南アジア研究において日本という場は、「西洋対インド」というポストコロニアル的な枠組を相対化できるいわば恵まれた位置をもっています。 8また「日本とアジア」「日本と世界」を考えるうえでも、インド・南アジア世界をどのように理解するかは決定的に重要な意味をもっています。「現代インド地域研究」での活動を通じて、現在という新たな時代に即した、新たなインド・南アジア理解ひいては新たな世界観・歴史観を日本から提示していくことができないかと念願しています。

以上


 1 本文書は、2010年3月23日に行われたKINDAS拠点構成員会議での議論(http://www.indas.asafas.kyoto-u.ac.jp/kindas/article.php/20100323)を主に踏まえ、また2010年5月21日に行われたINDAS連絡会議およびそのほか個人的にいただいたコメントを参考に、さまざまな方のご意見やご見解をほぼそのまま頂戴したうえで、田辺の責任でまとめたものです。「現代インド地域研究」事業におけるこれからの議論のたたき台となれば幸いです。

 2 ここでいう「発展径路」とは、成長モデルを指すのではなく、地域固有の生態環境の基盤と地域間交流のなかで、その地域が人々の暮らしをより豊かなものにするためにいかなる社会文化・政治経済のかたちをつくってきたか、その歴史的につくられて展開してきた地域のかたちのことを指します。

 3インド世界は、歴史的に常に地域間交流のなかにありました。グローバルな比較と連鎖という視点は、インド世界の基本的な成り立ちを理解するうえでも重要だと思われます。

 4 政府・組織・個人などの多元的アクターによる対話と調整を通じた協働的な統治のこと。意思決定および実施の過程における効率性、透明性、適法性、公平性が重視される。

 5こうした多層的なつながりをグローカル・ネットワークといってもよいでしょう。ただしグローバルとローカルの中間レベル、特にリージョナルと州レベルの重要性の増大(とそれによる地域特性・格差の進展)に注目する必要があります。

 6限られたパイの分配をめぐる政治。そこではしばしば暴力をふくむ摩擦や対立、そしてパイの分配を主張するための、さまざまなアイデンティティにもとづく政治主体づくりが行われた。

 7資源配分をめぐる階級・カースト・宗教対立の問題を成長への全体的合意に転換しようとする政治。多元的な社会集団の資源配分要求は続くものの、より多くのエネルギーをパイ自体の成長に向かわしめようとする政策。政治の焦点は効率性と公平性を主眼とするガバナンスに移る。

 8ただしもちろんこれには、日本自身の植民地主義の歴史をどのように考えるかという問いがつきまとっています。
 

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