資料探訪コラム


第1回コラム

史料へのアクセスから見たインド史研究の今昔

脇村孝平

歴史研究において、一次資料が生命であることは今さら強調するまでもないが、かつてインド史(以下、英領期のインド史を例に話を進める)を研究する場合、必要な一次資料を入手するためにとても時間をかけていたことを記憶にとどめておきたいと思う。今から三十年前のことになるが、1980年代の後半、私はデリー大学のデリー・スクール・オブ・エコノミクス博士課程に学んだ経験がある。『ケンブリッジ・インド経済史・第2巻』の編者であった故ダルマ・クマール教授の指導の下で、「19世紀後半のインドにおける飢饉」の経済史的研究に取り組んでいた。この留学期間中、ほぼ毎日のように通ったのが、ニューデリーの中心部にある「インド国立公文書館(National Archives of India)であった。ここには、英領期の植民地政府(Government of India)の行政文書が豊富に所蔵され、19世紀後半の飢饉に関する一次資料も多数見出すことができた。しかしながら、効率的に利用できるようなカタログが存在しないために、必要な史料を見つけ出すまでには非常に手間暇がかかった。最初は半ば当て推量で特定の文書を請求し、必要な情報が得られないことが分かると、周辺の新たな文書を請求しつつ、そうしたことを繰り返すうちに必要な文書に少しずつ近づいていくという実に気長な過程を経ないと前には進まなかった。気温が高い時期になると、暑さの中で、相当な忍耐が強いられる。インド留学時代の懐かしい思い出である。こうした苦労は、州レベルの公文書館では、さらに大きくなった。この当時、インド近代史研究を志した日本人の留学生たちが、かなり長い期間インドに留まったのはこうした理由によると思う。

英領期のインド史を研究する場合、一次資料の宝庫はインドにあるとは限らない。かつての宗主国であったイギリス・ロンドンにある公文書館、図書館の類は「使いやすさ」という点で優れていたし、史料の保存状況も上回っている。もちろん、インドの国立公文書館や州レベルの公文書館には、より現地に即した第一級の原資料が存在しているという点では優位に立つが、既に述べたように、如何せん手間暇がかかるというハンディがあるし、史料の保存状況も良くなかった。私がインドに留学していた頃、一度だけロンドンに行き、「インド省図書館(India Office Library)」(現在は、「大英図書館(British Library)の中の「インド省史料室(India Office Records)という部門になっている)を訪れる機会があったが、ここでは、カタログの整備、より専門的な司書の存在、良好な史料の保存状況などによって、より効率的に一次資料を入手できることが判明した。その他にも、「ロンドン大学東洋アフリカ学院(School of Oriental and African Studies, SOAS)」図書館「ロンドン大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(London School of Economics, LSE)」図書館なども、一次資料に近いものを多く所蔵していたので、ロンドンは史料収集という点で非常に効率が良かった。

1980年代後半以降、日本人のインド史研究者もまた、ロンドンの公文書館、図書館を利用する機会が増えたのではないか。これには、1980年代後半以降の円高による余得のおかげもあった。ロンドンでの滞在費は馬鹿にならないものであったが、「身分不相応である」とは思はなくなったのである。その傾向はますます強まって、多くの研究者が夏季休暇や冬季休暇を利用して、史料収集のためロンドンに短期滞在をするようになった。こうした傾向は、日本の大学教員がより多忙になってきたこと、そして大学院生はより早い段階で博士論文という結果を求められるようになってきたことなどが、効率的な史料収集の必要性を増してきたこととも関係があるだろう。

さて、今日の状況である。一次資料へのアクセスに関して、いわゆるデジタル・アーカイブの普及という点で大きな革新があったことが大きい。英国議会資料のオンライン版が、日本の一部の大学で利用できるようになってから既に九年ほどは経つであろうか。これを利用すれば、英国議会資料をほぼ網羅的に閲覧できるばかりか、語彙を入力して検索もできるようになっている。インド史に関しても、これによって多数の一次資料が利用できるようになった。ただし、これは、基本的に有料であるから、利用権のある大学に行かないと見られない。このような有料のオンライン・アーカイブスは、その他にもいろいろとあるはずだ。

インド史に関する無料のデジタル・アーカイブも少しずつ現れている。以下の二つは、とりあえず筆者の知るところとなったもので、探せば他にも幾つもあるだろう。一つ目は、「デジタル南アジア図書館(Digital South Asia Library) である。このサイトは、「シカゴ大学(University of Chicago)アメリカの「研究図書館センター(Center for Research Libraries)が中心となって構築されたもので、参考図書、画像、地図、統計、文献目録、書籍・雑誌などの項目に分かれて、それぞれ一定数の原資料が閲覧できる。私のような経済史研究者にとっては、統計の項目の中にある英領期の統計年鑑、『英領インド統計要綱(Statistical Abstract relating to British India)を見ることができるのが便利である(1840年から1920年までカバーされている)。統計の原表を見ることができるだけでなく、エクセルの形式に入力されたファイルもダウンロードすることができるという親切さである。もう一つは、偶然見つけたものであるが、「スコットランド国立図書館(National Library of Scotland)のホームページにある「英領インドの医学史(Medical History of British India)と題するサイトである。これは、同ホームページ中のDigital Galleryの中にある一項目であるが、ほとんどがスコットランド史に関する諸項目の中に、どういう訳かこのような項目が立てられており、英領期の医学史に関わる貴重な史料を多数閲覧できる。合わせて400点ほどの原資料が揃っていて、私自身ここから幾つかの原資料を入手し、自らの研究に活かすことができた。

デジタル・アーカイブは、有料・無料を問わず、今後ますます進化・発展し、歴史研究の重要な素材となっていくであろう。ただし、言うまでもなく、このようなデジタル・アーカイブは無数にある原資料群のほんの一部をカバーするに過ぎず、たまたま自分が欲している史料に出会うことはほとんど僥倖と言っても良いことである。したがって、デジタル・アーカイブにあると便利なのは、多くの人が利用する頻度が高い上記のような統計年鑑の類であろう。いずれにしても、時代の変遷によって、インド史研究のための史料へのアクセスの状況は大きく変化してきた。いささか懐古調で言えば、かつての現地における苦労の多い史料探究の経験は、地域研究という視点からは、それなりに意味のある過程であったと言えないこともない。他方、将来デジタル・アーカイブの利用頻度が高まるにつれ、現地への訪問回数が減り、歴史研究者がアームチェア探偵の風情になってくるとするならば、それ自身は進化とは言えないことになるであろう。

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